谷地恵美子『すぐりの季節』〜作品に込める思いの、漫画ならではの手法による昇華の洗練------とその行き詰まり?


すぐりの季節 1 (クイーンズコミックス) すぐりの季節 2 (クイーンズコミックス)

数冊まとめて読んだ初期の作品及び、代表作とされる『オモチャたちの午後』と比べ、実に対照的な作品。
はっきりいってしまえば、1990年代前半に書かれた初期の作品には、溢れるような思いと、表現ということに対する誠実さが満ちている一方で、それをあるいは蒸留し、あるいは凝縮することで、収束・昇華させる技量にやや欠けるところがあると思う。
しかし、2005年の作である『すぐりの季節』において、物語を凝縮し昇華させる技法は、実に洗練された高いレベルに達している。要するに、この漫画を読んで、その決定的な場面でそれぞれ登場する《人形》の姿が、読者の脳裏に鮮やかに残れば作者の勝ち、そうでなければ負け。そんな実に潔い姿にまで整えられた形で、作品は読者の前に在る。そしてあれだけのものが描かれた以上、作者の戦績は相当のものになる筈だ。


……ただ、勝手なもので、ここまで来ると、どこまでも綺麗に昇華し切ってしまっているのが逆に気になってしまう。思いを結晶化させた人形が、余りに見事に、何もかも------幼い思い出とその呪縛も、家族という関係・血の繋がりの有無・重ねた時間が絡み合う微妙な感情も------あるいは解(ほど)き、あるいは繋ぎ合わせてしまうことに、少し物足りなさを感じてしまう。
身勝手かつ無責任に考えると、既にここまでのレベルに達したような作家が更に歩みを進めるには、一度、これまでに築いてきた《型》の重要部分を自ら揺さぶってみせる必要があると思う。つまり、安定感を保てないところまで、作者自身が追い込まれる必要がある。そうでないと、既存の方向性ではどこまで突き詰めても------ひょっとすると突き詰めれば突き詰めるほど------自ら生み出した傑作、『明日の王様』は越えられないのではないかと思う。